三瀬夏乃介「風土の記」展評

KYOTOGRAPHIEの宣伝をしておきながら何なのですが、今日は10年ぶりくらいに明日香村に行って、三瀬夏之介くんの展覧会を見てきた。
三瀬くんは、僕の高校の一学年下の美術部の後輩にあたり、美術研究所も同じだったという縁であるが、昨年夏まで20年以上会っておらず、彼の展覧会を見たのも初めてだと思う。
たしか、僕が高校二年生頃、美術部の顧問の先生の実家が明日香村にあって、夏合宿を行った覚えがあるが、三瀬くんは参加していたのだろうか?昔すぎてうる覚えである。

その明日香村にある、万葉文化館という万葉集時代を中心とした文化博物館で、三瀬くんは、大がかりな個展を今日まで開催していたのである。
もっと早く見に行こうと思っていたのだが、結局最終日になってしまった。
明日香村に久しぶりにいったが、同じ奈良でも北部にある僕の家からでは結構な遠さだった。

それはともあれ、三瀬くんの作品の感想を書こう。
三瀬くんの芸風、いや作風は正直、高校時代からまったく変わってない。
いろんなところに移住したり、素材がポスターカラーから顔料になったりということはあるのだろうが、基本的な骨格は変わってないと言えるだろう。

ただし、ポスターカラーでケント紙に描かれた作品から、これほどの世界観を秘めているとは想像してなかった、というところだろうか。

おそらく、日本画、洋画、漫画などのどれかに当てはめようとしても、するすると抜けるような作品で、批評家泣かせな作品だろうし、同時にそれだけの可能性がある作品でもあると思う。

山形への移住や震災を経て変わったことはあったと思うが、一貫して出てくる、爆発する雲のようなモチーフ、緑色の影、巨大な手、そして小さな線や斑点は、三瀬くんの記憶にずっとあるものだろう

典型的な日本画とは言えないし、かといって洋画的でもない。漫画的であると言えば漫画的であるがそこに収まっているわけでもない
ただし、一見、陰影を使った立体的な表現のように見えて、西洋的なボリュームを表現しているわけではなく、その影は現実の影ではない気がする。

三瀬くんの影は、言わば日本絵画でいう「影向」であり、神仏が表す影に他ならない。事実、「ぼくの神様」や「J」などで表現されている影は、八咫烏に導かれた神武東征の影であり、大仏の影でもある。あるいは、UFOの影でもあるだろう。

爆発する雲のイメージから、その影が見え隠れるするというようなものだろう。
彼の爆発する雲は、阿弥陀来迎図の雲や、洛中洛外図における金雲のような、何かが登場したり、舞台転換する際に必要不可欠な煙幕のようなものだ。
その意味では、日本的な表現の伝統を担っていると言えるかもしれない。彼は自分なりにその文法を見つけたと言ってもいいだろう。

彼はその雲(時に原爆の雲のようなものを連想しているようだが)を巧みに使って、時々の風土における経験を、総合的かつ断片的に表している。
マクロ的であり、ミクロ的であるという、曼荼羅めいた表現もまた彼の特徴なのだろうが、細部と眺望を切り離して表現したくはない、という強い意志すら感じる。
ディテイルと鳥瞰図が同居しているという点も、日本絵画的な手法とつながるものがある。

ただし、彼の10数メートルにも及ぶ、パノラマ状の絵には単線的な時間の観念がみられない。日本の巻物の場合は、横スクロールしながら舞台転換する。しかし、彼の場合は、左と右のイメージに厳密な時間差があるわけではなく、彼の記憶における印象の差のようなものだと思う。

爆発する雲が、こちらに向かっているように見えるのも、イメージが右左ではなく、前後にあるかだろう。
そこが、かなり異質で奇妙な感じを受ける原因の一つでもある。

このように解読めいたことをしても、するすると抜けていくのは承知なのだが、彼がどこまで広い空間に耐えられるのか、見てみたいという気持ちになった。
一度、体育館レベルのサイズで展覧会をしてもらいたい。
三瀬くんならできるだろうし、そうしたときに彼のイメージはどこまで膨らむのか?
そう思わせてくれる展覧会だった。

 

三瀬夏之介作品集 日本の絵

三瀬夏之介作品集 日本の絵

 

 

冬の夏

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