スマートではないスマートフォン

スマートフォンがカメラも音楽プレイヤーも飲み込んでいく怪物的側面を現しつつあると先日書いた。
しかし、その期間もわずかかもしれない、という予兆も表れてきている。

グーグルがすでに開発者に向けて提供しているグーグルグラスは、字義通り、眼鏡型のデバイスであり、両手を使う必要がない。
グーグルグラスのような、ウェアラブルと言われるデバイスは、眼鏡型だけではなく、腕時計型など、様々なプロトタイプが出てきている。

iPhoneは、あくまで携帯型のPCが進化したものだ。革新的なインタフェ-スはタッチパネルということであるが、これが「スマート」なのか、と言われると疑問が残る。
皆が手元に顔を下げ、事故を乱発させるデバイスが決してスマートだとは言えないだろう。
また、写真の撮影にわざわざ両手を突き出す仕草もはたからみたら不恰好であると言わざるを得ない。また、スナップショットのような、早撮りもできないだろう。どちらかと言うと、スマートフォンによる撮影は、大きなファインダーを見つめる大型カメラのそれに近いものだ。

電話にせよ、カメラにせよ、音楽プレイヤーにせよ、電子書籍ビューワーにせよ、その他のアプリにせよ、専用機でない以上、何らかの不満を少しずつ残したままではあるが、統合する利点が勝っている道具ということだろう。

デジタル写真の進化した形は、フィルム写真とは似つても似つかないものになると書いたが、ウェアラブルのカメラはそれを予見するものだ。
これからは物体として意識しないものになる可能性も高い。

iPhoneの次の形をAppleが今出してない状態であることは、多いに懸念されることだろう。この次のデバイスイノベーターは、Appleではない可能性が大だ。

どちらにせよ、道具に人間が近づく時代は終わりつつある。道具が人間に近づく形が次のカメラの姿だろう。(三)

新しいドキュメンテーション

アルスエレクトロニカ(ヨーロッパ最大のメディアアートのフェステバル)では、ドキュメンテーションに多くの鑑賞者のテキストや写真を集約し、多元的な編纂をするという取り組みを開始した。従来型の主催者の一元的な編纂からより多元的な編纂へと移行させようとしている。とはいえ、地域アートフェステバルでは、多くのボランティアが参加するようになっているし、拡大するイベントを主催者が網羅するのはもはや無理で、鑑賞者のライティングや写真のクオリティが上がっている今日において必然的な流れではあると思う。
問題は、編纂するコンテキストをまでも鑑賞者に委ねる部分を作るのか、あるいはシステム的なものでそれを補うのか。ウェブシステムならその可能性は充分あるが、本となるとかなり意図的な編纂が必要にはなるだろう。
どちらにせよ、アートフェステバルがここまで拡大している今日において必然的な流れであるし、ドキュメンテーションのテクニックやノウハウはそのスピードに追いついてなかったので今後の試金石となるだとうと思う。(三)

 

http://www.aec.at/totalrecall/en/dein-festival/

フィルム時代

フィルム写真の時代は長い目で見たら相当短かったということになるのではないかと想像する。今でも写真発明からたかだか170年程度しか経っていないのだから。
かつての版画と同様、マスメディアの一線を退いた媒体は芸術表現の手段として残っていくということになるのかもしれないが、フィルムや印画紙、現像の薬品や機材など、素材や道具だけでも今以上に手に入りにくく、高額なものになっていくだろう。
本当にこの変化は、多くの写真家が思うより早かったと思う。僕が2005年くらに、デジタル写真が性能としても普及度合いとしても、すぐ抜いてしまうと予見していたとき、知り合いの写真家は誰もそう思ってなかったが、もう現実のものとなってしまった。
これが写真が現れたときの画家のショック、あるいは版画職人のショックと比較できるものかどうかはわからないが、メディアの交代劇を生々しく目撃していることは確かだろう。
すでに時代はポスト写真に向けて動き始めている。(三)

メイド・イン・ジャパンのデザイン! 70 年代 アナログ家電カタログ

メイド・イン・ジャパンのデザイン! 70 年代 アナログ家電カタログ

メイド・イン・ジャパンのデザイン! 70 年代 アナログ家電カタログ

この本は、1970年前後に家電メーカーが配布していた製品カタログを網羅的に掲載した言わばカタログ全集だ。その数、約550点に及びまずその量に圧倒される。それらが家電蒐集家、松崎順一氏によって、分類、再編されている。タイトルに「アナログ家電」と銘打っているように「デジタル家電」ではない。「デジタル家電」は、家電の中にコンピューターが組み込まれるようになってからのものだ。「アナログ家電」という呼称はないが、「デジタル家電」と差別化するための造語だろう。

エレクトロニクスには、重電や軽電といったカテゴリがある。重電は発電機や変圧器のような主に産業用の電気機器であり、軽電はテレビやラジオなどのAV機器に加え、洗濯機、冷蔵庫などの「白物家電」を含めた主に家庭用の電化製品のことを指す。

重電を扱うのは日立や東芝、三菱など旧財閥の系譜を引き継ぐ企業だが、総合電機メーカーとして家電も製造している。しかし、重電などのインフラ関連産業は資本規模が大きく新規参入は難しい。だから新興企業は発電所などの上流の「電機」ではなく、下流である家庭の「電器」の製造に参入してきた。それが「アナログ家電」の歴史である。

大正時代前後に創業された総合家電メーカーの松下電器産業(現・パナソニック)やシャープは家電ベンチャーの第一陣であり、戦後に創業されたAVメーカーのソニーやパイオニアなどは第二陣だと言えるだろう。

70年代というのは、総合電機メーカー、総合家電メーカー、AVメーカーというそれぞれ特色を持った日本の家電が成熟期を迎え、日本車とともに世界を席巻していった時期にあたる。60年代の追いつけ追い越せの時期から、日本の独自性を発揮し、「安い家電」から「質の高い家電」となっていった。

私事であるが私の父は家電メーカーに勤めていたので、その恩恵を受けて育ってきた。この本は70年代前後という、家電メーカーの黄金時代のカタログが収録されており、それはそのまま幼少期の記憶と重なっている。しかし、この本には成熟し洗練された日本の家電を表象するカタログが並んでおり、郷愁を感じるものではない。現在の目から見てもセンスが良く「恰好いい」と思えるものが多い。

家電がアナログならば、そのデザインもアナログである。写真はフィルムだし、デザインは写植だろう。特別な職能を持つ写真家、デザイナー、コピーライターが組んで、カタログになっていることがよくわかる。コンピューター登場以前のすべてのアートワークはアマチュアでは到達できない特別な技能の結晶だった。

実は家電もそうであり、複雑な回路や部品を組み上げる日本の家電はまさに職人技が凝結したもので、冷戦下において日本メーカーが市場環境や労働環境において有利だったということを差し引いても他国のメーカーが追随できない領域に達していたのだろうと思う。今日、日本の家電が総崩れになっているのは、冷戦の終結、円高、賃金の安い新興国の台頭に加え、デジタル家電になって回路や部品がモジュール化し、職人的技能が不必要になったことも大きい。

それはそのまま写真やデザインの世界で、デジカメやマッキントッシュ(DTP)の登場で大量のアマチュアが参入可能になったことと似ている。それを否定するものではないが、この本には一流の人々の職人的技能とセンスが組み合わさったプロフェッショナルな仕事を感じることができるだろう。その一つの到達点として「ウォークマン」とそのコマーシャルやカタログがある。今はすべてがデジタル化され、まったく環境が変わってしまったが、そのセンスの部分は現在でも多いに参考にできるのではないかと思う。

また、この本は東日本大震災によって、著者の知人の蒐集家の家屋が倒壊し、半年かけて著者がカタログを救済し寄贈されたことがきっかけだというエピソードも見逃すことはできない。震災後、多くのボランティアやフィルムメーカーによって、多くの写真が救済されたが、2000年以降の写真は極端に少なかったらしい。それはデジカメで撮影した写真はハードディスクごと消えてしまったからだ。

私たちもかつて引越しのために捨てられる予定だった大量の観光ペナントを譲りうけたことを契機にそれらを整理、分類し本を作ったことがある。昭和の子供部屋がそのまま凍結されたようなその部屋に入った時の衝撃は忘れられない。

著者が蒐集されたカタログを見たときの衝撃も相当なものだっただろう。その衝撃がこの本へと繋がっているに違いない。そして、消失する可能性のあった70年代の家電のカタログが、アナログ(紙)の本に転写、再生されている。家電とカタログ双方のデザインの素晴らしさとともに、郷愁を超えて「アナログ」の強さを再認識させられる一冊である。