データを編む
辞書編纂の様子を「舟を編む」と名付けるのは素敵だと思うが、僕
青江先生は、ATOKの生みの親である。ATOKの意味を知らな
青江先生は、大学に自然言語処理のベンチャー企業を作っており、
それでそのデータベース作成のために、地元の主婦やOLを雇って
データを編む作業は、文学とはちょっと違う。
三瀬夏乃介「風土の記」展評
KYOTOGRAPHIEの宣伝をしておきながら何なのですが、
三瀬くんは、僕の高校の一学年下の美術部の後輩にあたり、美術研
たしか、僕が高校二年生頃、美術部の顧問の先生の実家が明日香村
その明日香村にある、万葉文化館という万葉集時代を中心とした文
もっと早く見に行こうと思っていたのだが、結局最終日になってし
明日香村に久しぶりにいったが、同じ奈良でも北部にある僕の家か
それはともあれ、三瀬くんの作品の感想を書こう。
三瀬くんの芸風、いや作風は正直、高校時代からまったく変わって
いろんなところに移住したり、素材がポスターカラーから顔料にな
ただし、ポスターカラーでケント紙に描かれた作品から、これほど
おそらく、日本画、洋画、漫画などのどれかに当てはめようとして
山形への移住や震災を経て変わったことはあったと思うが、一貫し
典型的な日本画とは言えないし、かといって洋画的でもない。漫画
ただし、一見、陰影を使った立体的な表現のように見えて、西洋的
三瀬くんの影は、言わば日本絵画でいう「影向」であり、神仏が表
爆発する雲のイメージから、その影が見え隠れるするというような
彼の爆発する雲は、阿弥陀来迎図の雲や、洛中洛外図における金雲
その意味では、日本的な表現の伝統を担っていると言えるかもしれ
彼はその雲(時に原爆の雲のようなものを連想しているようだが)
マクロ的であり、ミクロ的であるという、曼荼羅めいた表現もまた
ディテイルと鳥瞰図が同居しているという点も、日本絵画的な手法
ただし、彼の10数メートルにも及ぶ、パノラマ状の絵には単線的
爆発する雲が、こちらに向かっているように見えるのも、イメージ
そこが、かなり異質で奇妙な感じを受ける原因の一つでもある。
このように解読めいたことをしても、するすると抜けていくのは承
一度、体育館レベルのサイズで展覧会をしてもらいたい。
三瀬くんならできるだろうし、そうしたときに彼のイメージはどこ
そう思わせてくれる展覧会だった。
「上方遊歩46景~言葉・本・名物による展覧会~」
ちょっと立て込んでいるので、簡単にしか書けないが、昨日の海洋堂の宮脇さんのレクチャーがどこで行われたか書いておこう。
非常に良く出来た展覧会であるが、そこまで話題になっていので、宣伝もかねて。
京阪電車なにわ橋駅、というわりと新しい駅がある。
大阪の方はご存知の方もいるだろうが、まだ行ったことのない人も多いだろう。
2008年、中之島線という、中之島の地下を走る線路が完成した。
天満橋駅から中之島駅までの5駅という短い区間の線路であるが、
中之島を縦断する電車がなかったので、中之島の東西をいくのには非常に便利な線路である。
なにわ橋駅はその一つで、外に出るとちょうど大阪市中央公会堂が見えるという、中之島公園に行くには最適な場所にある。
そのホームから地上へいく中間の動線のところに、京阪電車なにわ橋駅アートエリアビーワンという、主にアートを中心とした様々な催しが行われるスペースがあって、大阪大学、NPO法人ダンスボックス、京阪電気鉄道の3団体で企画・運営が行われている。
2008年の開業前から実験的な様々な展覧会、ワークショップ、イベント、演劇などが行われているのだが、春と秋に鉄道をモチーフにした「鉄道芸術祭」が行われており、今回は、名編集者である、松岡正剛氏が企画をして、大阪から京都までの京阪沿線の46駅をモーチーフに、まさに、沿線を編集するという意欲的な試みが行われているのだ。
松岡正剛氏は、70年代から工作舎を立ち上げ、「遊」という伝説的な雑誌を発行していたことで知られているが、その後は編集工学の名のもとに、大著「情報の歴史」などを編纂したり、展覧会を企画したり、また自分のメソッドを伝える編集の学校を主宰したり八面六臂の活動を続けている。
最近なら、千日間、千冊の本を独自の視点で書評していく「千夜千冊」や、東京の丸善で、独自の文脈で本棚を編集した「松丸本舗」などのことを覚えている人も多いと思う。
その松岡正剛氏が、大阪と京都の京街道の豊富な歴史を秘めた、京阪沿線を遊歩し、それを編集して、様々な資料、豊富な人脈によるトークイベントなどを行っているのが「上方遊歩46景~言葉・本・名物による展覧会~」というわけなのだ。
そして、昨日は、京阪沿線に会社を構える、精巧なフィギュアで世界的にも著名になった海洋堂の社長、宮脇氏のトークイベントが行われていたというわけだ。
http://artarea-b1.jp/blog/
展示は、駅の構内のように、円柱状にした柱を沿線分立て、そこに文章と写真、本、関連名物などを置いて構成されており、さらに、束芋などのアーティストの展示なども行なわれ、重層的な見方、読み方、歩き方ができるように工夫している。
特に、文学者や身体研究者などの参加は興味深く、関西出身の作家、柴崎友香の新しいメディアを使った書き下ろしのエッセイ「水と人とが集まるところ」や、束芋の近松門左衛門の『曾根崎心中』の登場人物である遊女お初に対して、心中を諌める手書きの文書「心中慰留」などは、かなり秀逸である。
これは、僕が以前から幾度か書いている、芸術祭には文学者をもっと入れるべきだ、という主張にも通じているところがあり、これらの物語は今のところ、会場内でしか読めないが、今後、ネットや電子書籍で発表されるなりして、継続的に人々を誘発するコンテンツとして幅広く公開していただきたいところである。
個人的には、以前から関心のあった、能楽師で、ロルファーでもあり、身体的観点から様々な古典を読解している安田登氏のワークショップにも関心があったが、行きそびれてしまった。
「上方遊歩46景~言葉・本・名物による展覧会~」は、現在の地方芸術祭で不足している部分について、かなり急所を突くような形で提示されているので、是非、時間のある方は足を運んで頂きたい。
12月25日までだが、関連イベントはまだまだ残っているし、イベントのない日でもいろいろ発見のある展覧会である。
新しい抽象表現
写真が超親密な風景と、超疎遠な風景に分離していく。それは表裏
結局、デジタル写真によって、写真表現の根幹だった、被写体、レ
その際、表現をする余地が、写実の方に少なくなり、抽象性の方に
実際、「新しい技」を写真家が作り出してもすぐ真似される、シュ
路上写真の喪失と監視写真の隆盛
もう一方の問題は、路上写真の喪失と、監視写真の隆盛だ。
路上写真は、日本の写真界の原点でもある。ただし、今、木村伊兵
つまり、すでに風景にパブリックスペースはないのだ。
我々が見ている風景は常に誰かのもので、写真を撮って勝手に収奪
同時に、我々の日常は常に監視カメラ、見えない主体、見えないカ
写真が超親密な風景と、超疎遠な風景に分離していくのは、実は表